NISTEP注目科学技術 - 2023_W145

概要
今日の物質科学において電子状態計算は非常に重要である。以下に示す具体例のように、電子状態計算は物質科学において不可欠なツールであり、材料の設計や物性予測、反応メカニズムの解明など、さまざまな研究分野で広く活用されてる。
物性予測: 電子状態計算は、材料や分子の物理的・化学的性質を予測するための強力な手段である。電子状態の計算により、材料の結晶構造、バンドギャップ、磁気特性、光学特性などの物性を詳細に理解することができる。これにより、新しい材料の設計や物性制御の戦略を立案することが可能となる。
反応機構の解明: 電子状態計算は、化学反応や触媒作用のメカニズムを解明するためにも重要である。反応物や生成物、遷移状態の電子状態を計算することで、反応経路や反応速度を推定することができる。これは新しい反応の開発や触媒の設計に役立つ。
物質の電子状態を精密に計算する技術は、今日の計算機の進歩と相まって、非常に高度な段階に達していると言える。大野や前田らによるGRRM法などを用いることにより、化学反応経路を網羅的に探索することも可能となっている。また近年の機械学習モデルを併用することで、材料や薬剤の候補物質のin silicoでの絞り込みも可能となっている。しかしながら、これらの計算科学手法では、物質の波動関数の記述に「密度汎函数理論(DFT)法」及びそれに立脚した「半経験的(SE)理論」が用いられており、十分な精度での物質設計が可能となっているとは言い難い現状である。DFT法はそれ自体が経験的なパラメータを含んでおり、スピン物性や強相関状態の記述などにおいて問題があることが知られる。これらの問題点を克服した理論手法に「結合クラスター(CC)理論」に代表される「波動関数理論」がある。波動関数理論はDFT法及びSE法と比較して計算コストが高い反面、経験的パラメータに依存せず、尚且つ高精度である。波動関数計算の高速化アルゴリズムの発展により、経験的パラメータに非依存な物質設計が可能になることが今後期待される。
キーワード
in silico / 理論創薬 / 材料開発 / 量子化学 / 電子状態
ID 2023_W145
調査回 2023
注目/兆し 兆し
所属機関 大学
専門分野 ナノテクノロジー・材料
専門度
実現時期 -
分析データ 推定科研費審査区分(中区分) 32 (物理化学、機能物性化学)
分析データ クラスタ 54 (理化学/分子化学)
研究段階
電子状態の高精度な記述には、電子間に働く平均場では取り扱うことができない「電子相関効果」の取り込みが鍵となる。このためには先述のCC法などの「高精度波動関数理論」が有効であるが、CC法は計算対象とする分子サイズNに対して、O(N^6)以上のオーダーで計算量が増大する。そのためこれまでは高々30原子系程度にしか適用できなかった。近年、「電子相関の局所性」を利用することで、高精度波動関数理論を大規模系に適用可能とする試みが行われてきている。ドイツのNeeseらによる「局在化対自然軌道(PNO)法」に基づくCC理論(DLPNO-CC法)は、既存のCC法の適用限界を大幅に超えた1,000原子系にも適用可能であることが示された[1,2]。またDLPNO-CC計算はスーパーコンピューターなどの特殊な計算機は一才必要とせず、普通のPC・ワークステーションで十分に実行可能である。このように、高精度電子状態理論はこれまでには不可能であった大規模系にroutinelyに適用可能になってきているが、現時点では、構造を固定した「一点エネルギー計算」および種々の物性量計算に限定されている。
[1] C. Riplinger et al., J. Chem. Phys. 144, 024109 (2016).
[2] M. Saitow et al., J. Chem. Phys. 146, 164105 (2017).
インパクト
近年では種々の物質設計におけるin silicoなアプローチ(high-throughput virtual screeningなど)の有用性が広く認識され、欠くことのできない重要なツールとなっている。また昨今の機械学習手法の醸成も相まって、こういったアプローチは実際の材料・創薬開発の現場でも用いられている。しかしながら、こういった場面で用いられる電子状態計算手法はDFT法あるいはSE法のレベルの止まっている。従って、これらの手法では記述が困難な複雑な電子状態を持つ物質に対しては、現状ではin silicoな手法はほぼ役に立たないと言える。そこでDFT法を、より高精度な「波動関数理論」で置き換えることで、より広範な分子種に対して、より信頼性の高い物質探索が行えるようになると考える。
必要な要素
スーパーコンピュータの開発競争がわが国を含む全世界で行われているが、量子化学計算それ自体は必ずしも並列化には適さない。それ故、スパコン開発では「高精度in silicoスクリーニング」技術は必ずしも恩恵を受けないと思われる。機械学習や量子計算といった「今流行りの分野」に若手研究者の関心は向きがちに思われる。研究予算の都合上、そういった分野に関心を持つのは当然ではあるが、そういった「流行りの研究」に人的予算を集中させてもイノベーションは生まれないのではないかと感じる。